みみずくDiary in China (だった)

中国留学からニッポンに帰国したみみずくによる普段着の徒然日記

日本人の「外国語」概念

私の場合、必要に迫られて、というか外国語を理解しなければならない環境にいたので、自然と何とか理解できる言語がいくつかある。

とはいえ読める、というだけの言語もあるし、何とかコミュニケーションが取れるのは母国語の日本語を含めても3つくらいしかないが。

というと、日本人には

「すご~~い!!」

などといわれてしまうのだが、外国人の友人たちからは、特に何も言われたことがない。

彼らにとっては、4カ国語以上を理解するのも普通だし、なかには6カ国語以上を話す人もいるので、特に凄くもなければ特別でもないのだ。

まあ、それは置いておいて。

 

日本人の「外国語」への意識って結構特殊だな、と思うのが、例えば日本の芸能人や有名人の話す外国語に対して、

  • 発音が下手
  • 文法が完璧じゃない
  • ネイティブレベルとは程遠い

などという評価が下されることである。

 

でもこれ、何か意味があるんかね?(;´∀`)

 

例えば英語に限って言えば、発音なんて出身地によって大きく異なる。

米語、英語に限らず、アフリカ圏、インド圏で話されている英語は、日本で「英語」と認識されている発音とは天地の差があるといっても過言ではない。

例えば、アフリカ圏出身者の話す英語は、スペル通りに発音されることが多いので、

「come」がそのまま「コム」となるし、

インド圏出身者も似たようなもので「library」がなぜか「リブリー」となったりする。

アフリカもインドも、英語は数ある公用語のひとつであって、第二・第三(またはそれ以上の)言語の中のひとつである。

しかし、英語を母語とする人々と支障なくコミュニケーションが取れている。

 

また、英語のネイティブスピーカーであっても、話す際に三人称単数の「s」が抜けていることも、ままある。

でも、言いたい意味は問題なく通る。

 

だから、日本でよく言われる「(外国語が)ネイティブレベルとは程遠い」という評価には、私はあんまり意味がないのではないかな、と思っている。

 

日本語に置き換えてみるとわかるだろう。

日本人であっても、会話の中で「て・に・を・は」の助詞を言い間違えることも多いし、逆に、一度も言い間違えずに今まで来た、という人はほぼ存在しないのではないかと思う。

文章の書き言葉ですら、推敲せずに書くと間違えていることも多々ある。

でも、その小さな間違いを、揚げ足を取るように「ネイティブレベルとは程遠い」などと評価するだろうか?

 

日本人の「外国語」への要求って、苦手意識も相まって相当高いと思う。

でも、そんな“ネイティブレベル”の外国語って、実際にはそんなに求められていないのではないかと思う。

(もちろん、重要な政治会談などの、精度を求められる通訳の方などは別だろう。しかし一般的な場において、である。)

 

私にとって、「外国語」はただの道具だ。

道具だから、自分が使いやすければそれでいい。

高級で見た目の良い道具でなくとも、使い心地が良くて実用的であれば、それでよい。

他の人が見たら、ちょっと見た目が悪いとか欠点もあるのだろうが、私が使う道具なのだから、私に馴染んでいて、問題なく使用できているのならば、他人の評価はどうでもいい。

 

道具の見た目よりも、その道具を使って

「何ができるか」、

「何を作れるのか」、

そして、その道具を使って

「出来上がったもの」(結果)

の方が、はるかに重要なんじゃないかと思う。

 

それに、素晴らしい作品を作る熟練の職人さんの使い込んだ道具を見て、

「見た目が悪いから、見た目の良いものに取り換えた方がいいですよ」

という人は、恐らくいないだろう。

 

言語もそれと同じなのだ。

 

もちろん、道具なのだから手入れは怠ってはいけない。

常に鋭利で、使い勝手が良く実用的なレベルに保ってなければならない。

 

でも所詮、それでよいのだ、と思っている。

 

そろそろ日本でも、外国語について「発音云々」、「ネイティブレベル云々」言うのをやめにしませんか?

多国籍・多文化の人々と話していると、そんなの気にしているのは、日本以外ではあんまりいませんから。