みみずくDiary in China (だった)

中国留学からニッポンに帰国したみみずくによる普段着の徒然日記

中国の光と影

2月8日に春節を迎えたこちらでは、今がまさにお正月。

労働者の国の中国では、意外にも日本よりもかなり労働者の権利が保障されているので、お正月である春節は、公民たちはしっかり休む。

日本のように元日営業などはとんでもないことで、休む時はしっかり休むのだ。

日本に比べ公休が随分と少ないこちらでは、カレンダー通りに休むことは、労働者の当然の権利として、疑いようもなく受け入れられている。

三が日はどこもかしこもシャッターが下りていて、本当に人口13億を抱える国なのだろうかと思うほど、いつもの喧騒とは打って変わって、街にはほとんど人気がない。

お正月には、みんな休むべきなんだ。

この点、日本って労働者の権利意識に乏しいよなぁ、と心から思う。

 

年明けから五日経って、そろそろいいかなと街に出てみたのだが、いやはや凄い人出で、気安く出かけてしまったことを少々後悔した。

久々に街中をそぞろ歩きをして、お腹が減ったので小籠包屋さんで一休みをした。

考えることは皆同じなのだろう、ショッピングバッグを腕いっぱいに抱えた家族連れで店内はごった返していた。

 

思う存分人民を観察していていつも思うのだが、「世間様」のないここでは、ひとりとして周りのことを考えることなく、各々が自分の欲望のまま、

大声で話し、

怒鳴り、

喧嘩をし、

合間に食事をして、

株と投資とお金の話をしている。

日本のように、「世間様」を気にして周りの目を意識する人は存在しないのだ。

 

自分も周りのことを気にしていないのだから、他の人も同様だ。

各々が、自分のことだけ考えていればよい。

それはそれで、とても楽な社会だ。

 

そんなことを考えつつ、小籠包を頬張っていると、後ろに座っていた、訛りの強い中国語を話す年配女性二人連れが席を立った。

中国人の話し声は、日本人の想像を超えるほど大きく、騒々しい。

 

お~、やっとお帰りか、などと思いつつ振り返ると、テーブルの上には食べ残しの小籠包3つが載った蒸籠がトレイに残されていた。

ちなみに、中国では食べ終わった食器を客が返却口まで持っていく習慣はない。片づけ専用の職員がいて、巨大な人口を抱えるこちらでは、これも雇用確保のひとつとなっている。

彼女たちが席を離れるやいなや、中年男性がすっと寄ってきたので、「片づけの店員さんにしては、制服を着ていないな」と何気なく見ていると、食べ残しの載った蒸籠だけをひょいと持ち上げ、スタスタと自分の座っていた席へと戻り、何事もなかったかのように食べ始めた。

 

日本に爆買いに来る中国人や、世界中の不動産を買い漁る中国人のニュースが報道されるとつい忘れがちになるのだが、豊かになった中国にも、まだまだこのような人々も多い。

 

春節気分が完全には抜けきれない、華やいだ街の中で、ある人々は両手いっぱいにショップバッグをぶら下げ、熱心に株と投資、お金儲けの話をする。

ある人々は、中国人の最も大切な祝日期間であっても、食べる物にすら困っている。

 

日本ではなかなか目にできない、社会の光と影に触れると、私はいつも複雑な感情を抱く。

 

そしてそれ以上に、「影」の人々の存在をほとんど気にせず、というよりもむしろ、全く彼らのことが見えていない、本気で何とも思っていない人民たちを不思議に思ってしまう。

 

あなたたちと同じ中国人のことだよ。

外国人や外国の出来事について文句を言う前に、関心持ってみてもいいんじゃない?

 

ああ、そうでした。

 

「世間様」のないここでは、他人のことなんて、心底どうでも良いのだ。

 

自分さえ良ければ、それで良い。

 

自分以外のことになんて、一瞥も目をくれないのだ。

だから、自分以外の存在になんて、気付くはずもない。

気付かなければ、存在しないのと同じだ。

気付かれない存在は、永遠に認識されないのだ。

 

それはそれで、確かに楽な社会だ。

 

でも…、と考えてしまうのは、私が「世間様」のある日本で、

  • 周りをよく見て
  • 周りの人に注意を払って
  • 他人様の迷惑にならないように

生活しなさい、と繰り返し教え込まれて生きてきたからなのだ。

 

中国人と日本人。

同じアジア人ではあるけれど、やはり似て全く非なる存在だ。

そしてその“非なる部分”こそが、私を形成しているアイデンティティなのだ。