みみずくDiary in China (だった)

中国留学からニッポンに帰国したみみずくによる普段着の徒然日記

“自分から病気にならない”ということ

「(大学)院生の“院”は病院の“院”」とは昔から良く言われているけれど、これって言い得て妙だなぁ、といつも思う。

院生の身分は不安定だ。

特に日本では、働いている訳でもない、かと言って社会に何か貢献しているのか、と言われても明確には答えられない、というかなり肩身の狭い身分だ。

だから、心身のバランスを崩してしまって苦しむ院生も、決して少なくない。

 

院生の身分は、日本と外国ではかなり事情が異なる。

院生とはすなわち、お国のために時間と労力を費やして頭を使ってくれている人々、とでもいった意味合いが強く、そのほとんどが国や自治体から経済的援助を受けている。

日本のように自費のみの苦しい生活を送っている院生は、少数派なのではないか。

 

こちらの場合もそうだ。

私は留学生なので全くの蚊帳の外であるが、同学たちは毎月給金のような形で、決して少なくはない一端の額を受け取っている。

それとは別に、学費免除または補助、奨学金、帰省費用補助があるし、出身家庭の経済状況によっては、年に数回の被服費補助まで出る。

ここまで手厚く扱われるのが「院生」であって、この場合の“院”は、さながら中国語でいう「お役所」の意味に近いのではないかと思う。

 

ここでまた日本の院生に話を戻すと、ここに来ている日本人院生は、現地の中国人院生と待遇に雲泥の差がある。

恵まれているとは言い難い環境の中で、日本にいる院生と同じく、肉体的・精神的に参ってしまう日本人院生も少なからずいる。

私くらいに年季の入った院生だと、一周回ってある意味悟りめいた境地に至れるのだが、まだ年若い院生にとっては、そうもいかないだろう。

 

かくいう私も日本で院生をしていた頃は、それこそ病気のデパートのように次々に病に襲われて、信じたくはないが「呪い」ってあるんだろうか、とすら思ったことがある。

今考えると、自分の体力の限界を見誤って、心身ともに相当に無理をしていたのが原因なんじゃないかと思えるのだが、渦中にいるときにはそこにすら考えが至らなかった。

私はどうやら鈍いらしく、肉体が悲鳴を上げて物理的に気を失ってしまうとか、身体の自由を失って初めて「体調不良なのか?!病院に行くべきか?!」と考えるタイプである。

そして医師に「どうしてもっと早く受診しなかったのか」と責められてようやく、自分が危機的状況にあったのだと認識できる間抜けである。

 

現代は文明の利器が発達していて、私も今目の前にしているが、便利な箱のキイボードを叩けば、欲しい情報がある程度得られてしまう。

だからこそ気を付けなければならないのが、「自分から病気にならない」ということだと思っている。

 

色々なことが上手く行かない、しかしやるべきことが山積の時には、ついつい「病気だったら楽なのに」とか、「病気だったら逃げる口実になる」と考えてしまいがちである。

もちろん、病気になる方が体力的・精神的にずっと辛いし、大変なことはわかっている。

健康であるからこそ、実際には違うのに病気ということにして、問題から逃げる自分を正当化したいのだ。

 

だから、本当はただの自分の甘さや逃げから来る疑似不調であっても、何らかの病気の症状なのではないかと、便利な箱で必死に情報を得ようとして、同じような症状の出る病気があると、安心する。

「ああ、病気なんだ。だったら仕方がない」と、自堕落な自分を正当化する言い訳を得て安心するのだ。

これって、もしかしたら誰にでもあることかも知れない。

 

だからこそ、大事なこと。

それは、「自分から病気にならない」ということ。

ネットで得た情報を持って実際に病院に行き、素人判断で「こういう病気のはずだ」と医師に訴えるガッツがあるのなら、他にもできることがあるはずなのだ。

 

いくつか厄介な病気をして経験したことなのだが、辛い病気であればあるほど、それは誰にも言いたくないし、実際に他言したことはない。

誰かに打ち明けて、「病気なんだから仕方がないよね」と言ってもらいたい自分がいることに気付いたら、それはきっともう病気とは別のことなのだ。

 

弱い自分も認めて、ある程度許してあげよう。

自分で自分を楽にしてあげて、それから、自分を励ましてあげて、信じてあげよう。

 

きっと、大丈夫。

私にはできる。

私になら、できるよ。

 

そう信じて、日々を過ごそう。

私を幸せにできるのも、楽にしてあげられるのも、私しかいないのだから。